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南アルプスの麓に拓く私の人生

 1頭の子牛をつれて嫁いだ21歳の花嫁も、結婚26年目を迎え、3人の子供も皆社会人となり、我が家の農業も母ちゃん農業から花卉専業農家へと大きく転換を図ってきました。

 私がこの山深い長谷村に嫁いだころは、まだ稲の単作地帯でほとんどの家が兼業農家でした。
私は、伊那市の酪農家の長女として生まれ、両親の伸びやかで、ゆとりある生活を肌で感じながら育てられました。
今年80歳の父親はいつも10年、20年先を想像し将来を考え、72歳の母は忙しい農業の中にあっていつも、美しく装い前向きでひたむきに、父親のよきパートナーであったように思います。父は9人兄弟の長男でしたので、母の苦労も多かったと思うのですが、母は『おじいちゃんもおばあちゃんもうんと、大事にしてくれて幸せだったよ』と私が嫁ぐまで愚痴も余り聞きませんでした。 そんな環境の中で育った私には、農業の暗いイメージなど微塵もなく農業を素敵な職業としていつもとらえていました。伊那市役所で電話の交換手をしていた私に見合い話が持ち上がり、翌年結婚しました。そのとき農協の技術員をしている夫には、上に3人の姉と下に3人の妹のいる7人姉妹の長男で、上の姉2人が結婚して私と同じ年頃の妹は、皆勤めに出ておりました。当然のごとく母は反対で『大変だよ』の一言でした。

 舅は長谷村村長の要職にあり、70アールの水田と20アールの畑の野良仕事は姑と私に任されましたが、機械化の遅れていたあのころの長谷村は、何をするにも私には大変苦痛でした。子供が出来て具合の悪い時、実家の父が見かねて3時間の道のりを手伝いに来てくれ、トラクターで田起し、代かきと2年間してくれました。

 父は、伊那の耕地に比べて基盤整備の悪さに大変驚き、危険さえ感じながら娘の私に『山際の田んぼ』は作らないようになどと言っていく始末でした。 そんな経過があり、3年目の春には我が家にも待望のトラクターが導入され、ずいぶん仕事が楽になりました。

 3人の子供に恵まれ、私に任された40頭の肉牛を飼育しながらの子育てでした。子牛を育てながら畜舎を建て、牛を増やすことは、勤めに出るよりはるかに収入のある大好きな仕事でした。
そして、子供に手のかからなくなった昭和54年に主人のすすめで、標高900mの夏場の冷涼で地の利を生かした『さやえんどう』の栽培を試みることになりました。 始めは何もわからないまま6アール作付けし、大変良い結果が出ました。このときから仲間を集め、気候に左右されながら失敗・成功を繰り返し、3年の月日が流れると、仲間も50名と増えました。私の栽培面積も延べ36アールと拡大し、収穫が度々真夜中になり、懐中電灯のオバケが市ノ羽さんちの畑に出ると村中の評判となりました。市場から日本一の評価を頂き、仕事にも夢や生きがいが持てるようになりました。村の統計数字にも記入され、活気がみなぎり、本気で取り組む仲間は生きいき輝いていました。
 そして、この時に女性の地位の向上と、タダ働きはやめようと『さやえんどう』を栽培している仲間に呼びかけて、自分名義の預金通帳を持つことで、更にやる気とパワーのあるグループに成長し、今では『いんげん部会』に引き継がれています。
36アールで360万円の収入があり、私名義の通帳に入金された時、農業に対する自信からか、少しずつ住みやすい村に変わった気がして、やはり苦も、楽も、気持ち次第ということを感じました。
 更に、冬場の現金収入ほしさに、山間地の条件を生かした原木しいたけを始めました。長男が高校生のころには、原木数が1万本となり仲間の協力を得て軌道にのるかに見えたけれど、暖地ものにおされて利益は少ないものでした。それでも同じ仕事仲間との語らいは楽しく、成長する子供たちは手伝いを通して辛さ・厳しさ、協力の素晴らしさを体で覚え、仕事に打ち込む親の気持ちをしっかりと、うけとめてくれました。

 昭和57年に舅が79歳で他界し、59年には、姑が脳梗塞で倒れ、10年の在宅介護の生活が始まりました。朝起きるとおむつの交換で1日が始まり、終わりも又おむつの交換の日々で、回復の兆しが全く見えない、大変ショックな出来事でした。病院や老人ホームはイヤだという姑の気持ちを大事に家で介護出来たことは、私が家にいて農業をやっていたおかげと感謝しています。10年間の介護生活は色々あったけれど、スイス、フランス、ドイツ、オーストラリアと、海外旅行に行けたし、近所の人々の助力には心から感謝しています。これからはお世話になった人々の為にも、出来るかぎりのボランティアをしようと思っています。ちなみに、介護で自慢出来ることは、
(1) 便秘を10年間1回もさせなかったこと、
(2) 床ずれがほとんど出来なかったことなどです。

 平成元年に主人が45歳で農協を辞め、花卉栽培へと大きな転換を図りました。今年で8年目になり、素晴らしい先輩や仲間に恵まれ、現在40アールのアルストロメリアのハウス栽培と、露地の草花30アール、そして中山間地に向いている県花のりんどうを今年から36アール計画しています。農業離れや後継者不足で農地が荒廃する中で、規模拡大が出来たことは幸せでした。そして、いい花を咲かせたいとの思いから、徹底した土作りが始まりました。『死んだ土から生きた物は生まれない』これは、主人の土へのこだわりであり信念であります。
明るい太陽の日差しをさんさんと受けながらハウスの中ですくすく育つアルストロメリアをみて、明日の農業を語り合う事はこの上なく楽しく、夢も無限に広がるのです。
平成4年に、有限会社黒河内花卉組合を設立し法人化することで、足腰の強い農業の確立を目指して来ました。標高が高いことから、早期出荷が期待され、出荷する花に市場から大変高い評価を受け頑張りがいのある毎日でした。
スタート時の経営状態なら施設費や種苗費の借入金も計画的に返済できそうにみえましたが、バブルがはじけてから計画の見直しを余儀なくされました。平成6年には、ハウスの前にバイパスが通りずいぶん便利になり人通りも多くなったことから、花と観光を結ぶ観光農業に少しずつ力を入れる計画を立てました。
 今、消費者はまず自然で、安全なこと、そして生産者はどんな人か、顔のみえるものを一番望んでいると思います。私も、全量を系統に出荷しているので、直接お客様との顔の見える付き合いがしたい。そして安い価格で新鮮な花を楽しんで飾って欲しい。
好きな花を好きなだけ自分で切れる花、『花摘み』『花切り』の企画を話し合っている中、皆の意見が一致して、『花狩り』を始めることになりました。
まず、地方新聞で取り上げて頂き続いてラジオ・テレビのマスコミで何十回となく報道され、この宣伝効果のおかげで、大勢の方が見えられました。
今では村の観光コースにも組み込まれ、視察者も増え、長谷村の農業のイメージが少しでも明るく変わればと期待されています。

 この『花狩り』もまだまだ未知のものだけれど、人口2300余名の村に1人でも多くの人に来ていただき、長谷村の自然を満喫してもらえたら素敵ではないだろうか、ホスピタリティーが感じられる村にしたいと思っています。昨年は来園者が3000人を超え、今年は『花狩り』客の出足が昨年よりかなり早くなり、週末になると団体客や家族連れなどで暖かいハウスの中には一足早い春の到来となっています。今年で3回目のイベントを3月に控え、あわただしい毎日ですが、花切りの合間に薪ストーブを囲みながら、イメージ通りのイベントを計画することが楽しみな毎日です。

 20世紀が終わろうとしているいま、農村の女性たちに地についた逞しさが輝く時代ではないだろうか。 そして日本農政が大きく変わろうとしているとき、自分たちの未来に大きな不安を感じ、希望を失いそうになりがちであるが、2度とない人生、夢があるからこそ明日の私もあるのだと、強く確信しながら、南アルプスの麓で精一杯やり抜こうと思うのです。


 
 
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